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9月23日横浜みなとみらいホールでの読響定期 [クラシック]

この三連休もずっと仕事用のコードをシコシコ書いて過ごす予定だったんだけど、女房お気に入りのアンデルシェフスキとカンブルランが今日の昼、横浜みなとみらいホールでやるのを今朝知った。女房も昼のコンサートはノーマークだったらしい。当日券が残っていると言うので二人で行ってきた。
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不意打ちみたいに面白かった。女房が気にいるのも良くわかる...

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6/20アムラン ピアノリサイタル [クラシック]

ここ数週間仕事が煮詰まってて悶々としてるんだけど、今夜は女房と二人で雨の中、銀座まで行った。アムランは僕がナマを聴いてみたい、とずっと思っていたピアニスト。
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充実しててめちゃ面白かった....

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読響第577定期 [クラシック]

女房のお気に入りのカンブルランが、僕の大好きなマーラーの9番を振るというので二人で行ってきた。
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なかなか良かった...

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読響第574定期 [クラシック]

うちの女房お気に入りのカンブルラン読響の定期演奏会をふたりで聴きにいった。

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なかなか面白かった.....

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アバド+マーラーユーゲントの9番 [クラシック]

台風をおしてまた工場に来ている。今日は移動に膨大な労力を費やしただけに終わって、仕事にならなかった。無駄に疲れた。

たまたまYouTubeでアバドがマーラーユゲントを振ったマーラーの交響曲9番を聴いた。こういった世界トップレベルに近い演奏を、十分鑑賞に耐える画質音質で、簡単にロハで見聴きすることができるというのはすばらしい。僕が子供の頃を考えたら本当に夢のようである。

とはいうものの演奏そのものは「?」が多いものだった。第1楽章はずっと一本調子で曲の持つ開放感が表現しきれず、退屈な曲になってしまった。本来そんな曲ではなくて、もっともっと深みと広がりと、そしてなによりも、こんな自由さというのが存在するんだ、ということを教えてくれる曲だと僕は思っている。

第2楽章もやり過ごし感の多い演奏だった。第1楽章に比べるとマーラーの筆が鈍ってるとしか思えないところもあるのでしょうがないかもしれない。しかもそこそこ長いのでこれを聴かせるというのはかなり大変ではある。

すばらしいのは第3楽章のブルレスケ。オーケストラの機能と機動性を両立させた名演だと僕は思う。トリオではツッコミが足りなくてダレもあるけど、主部はリズム感のはっきりした、まるで後先考えないというような潔い音楽になっていた。ソリストたちの技術の高さもある。全体としてのアンサンブルは、やはり世界水準には劣るかもしれないけど、オーケストラメンバの自負と度胸と意気込みが感じられて聴いていて気持ちいい。

コーダのプレストに入ってからはそれこそジェットコースターのようで、実に爽快だった。やはり運動能力の高い若い人が音を出しているからいいのかもしれない。僕は歳を食って運動能力が演奏能力に直接に影響するということを今更ながら知りつつある。

フィナーレは陰影のない妙に明るい場面が連続する不思議な演奏。こんなの初めて聴いた。一見スッキリしてるようでどこかドロドロしたところのあるマーラー独特の遠近感がなくなって、なんだかのっぺりした絵になってしまった。こういうのもありかな、とちょっと思ったけど、やっぱりこの音楽の本来の姿ではない、という気がする。僕としてはこのフィナーレのせいで残念感溢れるという評価になった。

最初に書いたように、このレベルの演奏がこのレベルの(少なくとも僕にとっては)高画質高音質で簡単にロハで鑑賞できる、というのはすごいことである。しかし、この一回の演奏のために指揮者とオーケストラメンバが重ねてきた時間と努力に釣り合った聴き方なのか、というと疑問は残る。

演奏者としてはその見返りは必要だし、でなければこのあと続けていくことは困難になる。昔はライブに参加するのでなければ、LPやCDというパッケージ、つまり入れ物を買うことで中身に対する対価を支払ってきた。それは中身に対して直接対価を支払う手段がなかったから仕方なしにそうしたに過ぎない。

しかしそうすると、また例によって売れなければならない、ということになってしまう。クラシック音楽の受け手の層は今では薄いので、AKBと同じシステムに乗ったのではやっていけない。アバドとマーラーユーゲントのCDを一人で五百枚買う奇特な人は存在しない。

パッケージの意味がなくなった今、なにかもっと直接的でみんなが納得できるシステムはできないものか、と思ってしまう。

やっぱりケイロンに行くしかないのか....
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ヤルヴィとN響 [クラシック]

Eテレ13日夜のクラシック音楽館を聴いた。ターニャ・テツラフのチェロでシューマンの協奏曲と、シューベルトの8番。ターニャのなんだかしゅっ、としたチェロはカッコいい。でも僕はシューマンのオーケストラ曲が苦手なせいで十分理解できない。どうも僕にはシューマンの言うことが外国語に聴こえてしまう。

シューベルトの8番は齟齬が大きかった。ヤルヴィは軽く軽くやりたいのにN響がついてかない、という感じがする。第1楽章の序奏がかなり速いスピードだったり、第2楽章のアンダンテがその序奏よりもさらに速いんだけど、軽さよりも慌てた感じがしてしまう。

3楽章のトリオもオーケストラが遅くしたがっているように聴こえてしまった。そのせいでなんだか落ち着かないざわざわした感じのままトリオがやり過ごされてしまう。主部に戻ると最初にやったよりもなんだか落ち着かない。

フィナーレはもともと落ち着きのない曲なのでそれほど目立たずに済んだ、という感じ。でも、展開部にある特徴的なひびきの重い小節から戻ったときに、そのままその重い雰囲気を引きずっている。僕が考えるシューベルトでは、そこであっさりともとに戻らなければいけない。

前にも書いたけど、僕は子供の頃このフィナーレを聴いて、明るい曲想にもかかわらずいつ果てるとも知れない繰り返しのせいで、ふいにぽか、っと暗い落とし穴が開いてるような空恐ろしい感じがして、怖くていつまでも好きになれなかった。これを聴いて僕はそれを思い出した。

指揮者がすべてコントロールできるわけではないにしても、あまりにも考えていることが違いすぎる、という印象が僕には残った。ヤルヴィとN響のどっちのせいなのか、は僕にはよくわからなかったけど。
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井上道義のショスタコーヴィチの評価 [クラシック]

僕はNHKでやったショスタコーヴィチの交響曲12番を井上道義が振ったのを聴いて、11番のほうを聴きたかったと思った。大阪ではそれをやってくれたらしい。その評が朝日新聞に上がっていた(ログインが必要)。僕はその演奏を聴いていないのでどうだったのかはよくわからない。しかし、その評論では演奏どうのこうのよりも、暗にではあるが曲目が悪い、と言いたかったようである。

ベートーベンの交響曲のように主題を、全知全能を尽くして展開するのとは違う。チェーホフの芝居やチャイコフスキーのオペラに出てくる際限ないカードゲーム。
たった数種類のカードが執拗(しつよう)にめぐる。図柄は民衆の嘆き、怒り、革命指導者の号令、決起と騒乱など。展開なき反復。その要領で、長大な交響曲ができる。

ついこないだ説明したように(その1その2)僕は全くそう思わない。「展開なき反復」とはよく言ったもので、引用された革命歌はほどんど展開されていないのはその通り。しかしそれ以外はそうでないことはすでに説明した。

朝日の評者は
そういう音楽の楽しみ方は、知的な読解とは違ってくる。映画音楽的、バレエ音楽的といってもよい。遊戯に耽(ふけ)り、大河にのまれて時を忘れる。

という。僕は少なくとも交響曲11番では非常に知的で高度な音楽言語が駆使されていると考えていることはすでに書いた。音楽評論家が高度な音楽言語を理解しようとしないで誰がそれを言語化(ことばとしての)できるのか。

僕としては評者である片山杜秀がもっと虚心にショスターコヴィチの音楽を聴くべきだとは思うが、はっきり言って年寄りがどう思おうがどうでもいい。若い人がこういう頭の固い年寄りの言うことはそれはそれとして鵜呑みにせずに、自分でショスタコーヴィチの音楽を聴いてもらってどう思うかを自身で考えてもらいたい、とつくづく思う。数百年間いわゆるクラシック音楽というものはそうやって発展してきたのである。

だから、若者よ、ショスタコーヴィチを聴け。あなたたちの苦悩の一部はそこに表現されている。それを理解するためにはワーグナーやマーラーを聴く必要があるかもしれないが、そう感じるならそれを聴け。それを聴いてわからなければモーツァルト、ベートーヴェンを聴け。その音楽言語(言葉によらない純粋な音)はそういう作曲家たちの積み重ねで高度化されてきた。

「可愛いあの子に、僕は首ったけ」が音楽の全てなら僕の言うことはない。それ以上の表現が音楽にはあると僕は思っているし今の若者にはそれが必要だと思っている。そしてそれはクラシックだけではなくジャズにもロックにもそれぞれ違った表現が存在している。「言葉では表せないその次」を知りたいならそう言う音楽を聴け、若者よ。そうやって音楽は、芸術は発展するのである。

ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その2 [クラシック]

「ショスタコーヴィチの交響曲第11番は名曲だ」説の後半。どうしても第1楽章は要素の提示が多いので指摘すべきことも多くなってしまう。今日は残りを一気に辿って僕の結論を示す....

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ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その1 [クラシック]

ちょっと前のことになるけど、井上道義の振るショスタコーヴィチの交響曲第12番の放送を聴いた。僕はこの12番には「スベった」感があるような気がしていて、これなら井上道義には11番の方を振って欲しかったと思った。

なら11番はスベってないのか、というと僕はよくできた名曲だと思っている。しかし世間的は評価は分かれているようである。あまりに標題音楽的で身もフタもない、という意見と、標題音楽として迫るものがある、あるいはもっと、ただ音響的にカッコいいという意見まで耳にすることもある。

この曲はソビエト革命前夜をテーマにしてそれに基づいた表題が各楽章についていることや、革命歌や囚人歌が重要な主題として引用されていること、まるで映画音楽のようにまざまざと眼に映るような描写性の高さから、標題音楽とみなすのが一般的である。僕も初めて聞いたとき(中学時代にブラスバンドの友人から借りたレコードで)シーンごとに情景を思い浮かべたことを思い出す。

でも、この曲に澱のようにまとわりついた言葉を取り除いてみると、ショスタコーヴィチの音楽言語の巧みさと、それによる彼自身の自己実現の意志の高さが伝わってくるような気が僕にはする。

ショスタコーヴィチは止むに止まれずではあるけどソビエトプロバガンダ映画の音楽を大量に書いたおかげでオーケストレーションの技術は向上し、書きたい音楽が批判を浴びるせいで自分自身の中で迎合と内的欲求との折り合いをつけるやりかたを身につけていった。その集大成が前作の10番だった。

そしてそのあとの11番である。

2  交響曲第11番の大まかな構造

2.1  11番以前

古典的な交響曲ははっきりとした特徴的なモチーフから主題を組み立て、それをもとに全曲を構成するというのが普通である。しかしショスタコーヴィチは交響曲5番以降、そういう目立つモチーフとは別に、単なる伴奏音型や手癖指癖と思われるようななんでもない音符を使うことが増えていると僕は思う。曲によっては楽章の中で派手な第1主題がすぐ顧みられなくなったりする。

たとえば5番では次の音形
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が頻出する。これは最初伴奏にしか出てこなくてたまたまそういうリズムになったんだろう、と思えるんだけど、そういうリズムでなくてもいいと思えるような伴奏にも現れるのと、重要なテーマやその対旋律にリズムとして含まれることが何度も出てくる。だからどうした、というようなモチーフなのに深層意識に染み込むように織り込まれている。

それが10番になるともっと無意識下に沈んでいく。ほとんど別物のようにしか思えないテーマがどうというわけでもないような音階で結びついていたりする。

この11番も表立って目立つ部分と「無意識下に忍び込む」部分とが交錯するような作りになっている。長くなるかもしれないけど、それを説明しようと思う.....

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Eテレ「クラシック音楽館」 井上道義のショスタコーヴィチ [クラシック]

2月5日夜の放送。井上道義は僕の好きな演奏家なので彼が元気なのはうれしい。病気の前から頭髪が徐々に後退してたけど、とうとうなくなってしまったのはもともとルックスが良かっただけに残念である。でも若い頃からあった可愛らしさ愛らしさ憎めなさは変わらない。人柄だな。

ピアノコンチェルト1番ではアレクサンドル・ヴォロディンという若手というか中堅のピアニストが、ショスタコーヴィチのわざと鳴りにくい音を選んだかのような複雑な音符を事も無げに弾いていった。もう一人のソリストのトランペットはこれが私の仕事です、と言わんばかりに淡々としかも軽々と吹いた。それはこの曲では正しいし、とても良かった。

一方でヴォロディンのピアノはすごいんだけど、なんかもうちょっと違うものが欲しかったという感じがする。この曲のピアノにはトランペットと違って演奏家の個性が要求されているように僕には思える。それはアンコールに弾いたプロコフィエフでも感じられた。テクニックはすごいけど、どこか曲に答えられていない感じが残尿感のように僕には残ってしまった。

そのあとの交響曲12番。僕はこの曲がショスタコーヴィチの曲の中ではイマイチだと思っていた。その前の11番は一歩間違えば駄作になりかねないのを、無意識化に染み込むような緻密でしかも重層的な作り込みで、見かけとは違った方向に持って行った名曲だと思うんだけど、同じパターンで作った12番はそれが「スベった」感があって、ショスタコーヴィチにしては安易な感じが僕にはする。

井上道義はなかなか熱い演奏をしたんだけど、この曲のそういう表層的な面がかえって強調されたような気が僕にはする。これだったら僕としては彼の振る11番の方を聴きたかった。

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